能面について

About "Noh" mask

能面(面=おもて)は、能を演じる際に主にシテ方が顔につけます。

古くは能面が宗教的意味を持っていたので、宗教的意味がない場合は仮面を原則としてつけず、また祭具としして使用された能面は焼くか流すのが原則だったのではないかと考えられています。

能の発展と共に、能面にも形式や約束事が多く用いられるようになり、眼の色、面の色、眉や口の形、骨格などに多くの情報が組み込まれ、写実と抽象の兼ね合った幽玄な美的表現を強く表すようになります。

室町時代末期には今日の能面の基本的なものはすべて完成し、また世襲の面打の家も生まれました。江戸時代になると、多種多様な面の中で優れたものを「模作」し、新たな工夫が施されるようにもなります。

実際に舞台で使用されている能面は、同じ種類の能面であっても、時代や作者の違い、舞台での使用頻度などにより、それぞれに表情や性格があり、同じものは一つとして存在しません。

基本型は60種類位、今日では200数十種類が存在すると言われています。

大きく分類すると、翁系の面、老人の面、鬼神の面、女面、怨霊の面、男面の六種類に分類する事ができますが、研究者により分類方法には若干の違いが存在します。

また実際に使用する際には、能面の分類が絶対的なものではなく、各々の能面の持つ顔立ち・品格・雰囲気や演目との相性、衣装との相性など総体的な判断を演者が行い決定します。

なお、能面をつけず素顔の場合を「直面(ひためん)」といいますが、この場合も表情で喜怒哀楽を表現する事はなく、能役者の顔そのものが「面」となります。


林家略年表

History of The Hayashi's

1625寛永2年林九兵衛の次男、千本三条へ分家し、林喜右衛門と名称し、謡を以て生業とする。
二代目までの歴史的検証が出来ず、三代目が初祖ではないかという説が有力。
1671寛文11年3代林喜右衛門(玄融)、福王家(服部宗巴)へ入門、謡を習得する。
1694元禄7年服部宗碩が京都で隠居、素謡の教授を始める。
京都五軒家は岩井、浅野、薗、林、井上をいう。
1708宝永5年3代玄融他5名、13代観世滋章の直門となる。
1720享保5年玄融他2名、江戸へ行き、観世家の直弟となる。
「素謡家の始とす。」
1721享保6年3代玄融、10月17日南岩戸山町東側に住む。
1723享保8年4代玄庭、林喜右衛門襲名。
観世家に2度修行に赴き、御本丸にて御能仕舞數番勤める。玄融は落髪、「関寺小町」を拓くことを14世観世清親から許される。
1760宝暦10年5代玄好、林喜右衛門襲名。
池田、大津、若狭、備前に多くの社中あり。
1780安永9年6代玄乗、林喜右衛門襲名。
1783天明3年7代玄先、林喜右衛門襲名。
1788天明8年天明の大火によって居宅焼失。(京都市街地の8割が焼失。)
1818文政元年8代玄章、林喜右衛門襲名。
1839天保10年9代玄篤、林喜右衛門襲名。
玄章の社中、玄篤の社中共々多く、益々盛んとなる。
1864元治1年禁門の変により家屋焼失。同年假家建設、稽古を始める。
1868明治元年10代目玄忠、林喜右衛門襲名。
士農工商の「士」として身分、
俸給を世襲していた能楽の役者は明治維新によって
存続の危機を迎え、多くの者が困窮、廃業することとなる。
1872明治5年10代玄忠、一時業を休む。
1875明治8年10代玄忠、月次会を再び催す。
1876明治9年4月4日岩倉具視邸にて天覧能が開催され、
天皇がご覧になる。(能楽復興の第一歩)
1881明治14年新町岩戸山町の旧宅地に普請、12月に引き移る。
この頃京都にも能楽復興の様子が著しく表れる。桂御所、本願寺などで催しが度々あった。
1883明治16年10代玄忠、功労があったという事で謡皆伝の免状を付与される。
当代より素謡専門ながら一方に立方をも勤める事となる。
1909明治42年11代幽玄、兵役に服務。
1914大正3年11代幽玄、林喜右衛門襲名。
1920大正9年2月1・2日、舞台披きの能を張行。
以来、定期能楽会を組織。